宮津祭をより詳しく知りたい方へ 

先ず宮津祭を理解するために次の点にご留意下さい。それは宮津祭という呼び名は江戸時代に藩祭である「山王祭」の俗称として用いられ、今日まで続いてきた名称であるということです。ところがそうした中で、昭和の中頃(昭和34年)に「東祭」が山王祭礼日である5月15日に変更されます。東祭は幕末の頃、秋祭として始まった比較的新しい祭で、いわゆる宮津祭とは違う別の祭であったわけですが、近年それも含めて「宮津祭」と呼ぶようになりました。そのことにより現在、宮津祭の歴史を語る上で大きな混乱を生じることになっています。ここでは、そうした歴史も含めて詳しく解説して行きたいと思います。

宮津祭の始まり

さて宮津祭はいつから始まったのでしょうか。江戸時代の初め、城下町宮津が整い始めた頃にそれまで続けられてきた山王祭の波路御旅所迄の神輿渡御(みこしとぎょ)が暫く中断した記録があります。このことは江戸時代初期には既に波路への神輿巡幸という山王祭礼が続けられていたを示す資料である言えます。
その頃の宮津の氏子区域は城主に差し出した公の記録(注、1 )で知ることが出来ます。それには京街道から東堀川より西全町は古より山王氏子、また島崎、城内もその氏子とされています。すなわち、宮津の町のその殆どが山王宮氏子であり、そうしたことから城下こぞって山王祭礼を執り行っていたわけです。これは後に宮津祭と呼ばれます山王祭の原型を知るための大切な資料と言えるものです。
■※注、1 延宝四年(一六七六)「寺社奉行所宛覚書」・・
■「一、山王氏子、京街道筋ヨリ下ハ東堀川迄切リ、西ノ分昔ヨリ山王氏子。・・以下その理由が記されています。
■「一、分宮氏子、田町・紺屋町ニ少々御座候。・・田町・紺屋町(暁星幼稚園前の通り両側)
■また、同文書では築城以前の宮津に分散する漁師が古くから山王氏子であったことも併せて記されています。

藩祭とされた祭と宮津城主 

さて、神輿渡御を中心とした山王祭礼は、江戸中期に入り藩主青山侯42年の安定した時代の中で藩祭・山王祭として次第に整えられてゆきます。参勤交代による城主宮津在城の時は大祭として、そして江戸在中の時は小祭として祭礼の規模も変化するようになり大祭の時は宮津藩より槍二十本、馬二匹が行列に加わり、それに各町の芸・山屋台が加わる大変賑やかな祭となって参ります。
宮津祭の根本は神輿の渡御による宮津城下の平安を祈る祭であります。そして宮津の範囲を考えるとき波路町は外すことの出来ない力を持った町でありました。したがって神輿は必ず波路までの渡御をおこない、そのため宮津城は山王祭に限り大手、波路両門を開いてその通行を許可しました。城主は見物席を設けて祭を堪能し芸屋台に褒美を与えたと記録されています。各町の屋台そして神輿、浮太鼓などは競って城内になだれ込み、町衆は「宮津祭は将棋の駒よ、大手大手と詰めかける。」という俗謡をはやらせたと言います。

宮津祭と呼ばれた理由 

江戸時代も中期から後期を迎え城下町が色々な意味で変化して行く過程で東堀川から西堀川までの間の四町(本町、万町、魚屋、職人町)が氏子分けとして山王杉末神社から分宮神社(昭和中頃、和貴宮神社に改称)に繰り入れられたと記録されています。そして時を同じくして東祭とよばれる分宮神社祭礼が始められるわけですが、浮太鼓等の芸能が伝わって行く過程をこのあたりに窺うことができます。ただ山王祭に関しましては氏子分けに関係なく以後も全町がこぞって執り行ってきました。つまり上記四町は二つの神社の二重氏子として東祭、宮津祭共に関わって行きます。これは宮津の守護神としての山王宮の位置づけによるもので、山王祭を宮津祭と呼ぶのは西、東の宮津町衆が一緒になって執り行ったそうした特別な事情によるものでした。
江戸幕末に入ると分宮神社の神輿渡御が宮津藩より許されます。そして以前より行われていました西祭と呼ばれます杉末神社例祭(赤ちゃん初土俵入)と共にそれぞれが秋祭りとして以後続いて行きますが、山王祭は東祭、西祭とは別の宮津藩祭として変わることなく東西町衆が一体となって昭和まで維持されて行きます。つまり宮津では秋の東祭、西祭、そして宮津祭と呼ばれる春の山王祭の年三度の祭が行われていた事になります。また、山王の神の使いである猿にちなんで四月の中の申(サル)の日であった山王祭は、藩主の命令により新暦に合わせて五月十五日に変更されます。

現在の宮津祭 

こうして全町の参加の下で盛大に続いてきました宮津祭は明治、大正ともに変わらぬ大きな祭を展開しますが、戦後の疲弊した状況の中の昭和三十四年、それまでに何度か変化して来ました分宮神社の祭礼日が宮津祭と同じ日の五月十五日に変わり、そのことにより神楽番、芸屋台等の祭の責任を担っていた東部五町の参加が途絶えることとなりました。以来全町参加の本来の宮津祭は残念ですが中断し、江戸時代二十六基の規模を誇った芸・山屋台の巡幸も途絶えてしまいます。
しかし平成十四年、宮本町(旧・職人町)の芸屋台である「萬歳鉾」が東祭空き番の年に復活し四十五年ぶりに山王祭礼に参加され、以降三度に亘り子供歌舞伎を披露されています。これは宮津祭の歴史を理解し、今に伝承しています宮本町の意気込みとも言えるものです。 現在山王祭は西町杉末神社の氏子と東町山王宮奉賛会の青年により、波路御旅所迄の神輿巡幸と太神楽、浮太鼓の祭礼が古式通りに行われ宮津城下の平安が今も昔も祈り続けられています。尚、秋の西祭は江戸時代から変わることなく十月十日(初土俵入は体育の日)に執り行われています。

山王祭のハイライト
神輿巡幸に参加しよう

参加資格/要項

■伝統の宮津祭で神輿を担ぐ。山王宮では神輿渡御のための担ぎ手を募集しています。
■参加資格は宮津に住む男子ならどなたでも可能です。何百年も続けられてきた祭の意気込みを心身で体感して下さい。きっと素晴らしい達成感とこの地に生きる実感を得られるはずです。
■参加者は山王宮神輿組に入会していただきます。祭衣裳は神社で貸し出します。ご希望の方は神社へご連絡下さい。



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山王宮日吉神社

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京都府宮津市宮町1408番地
Tel 0772-22-3356
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■アクセス
宮津・天橋立インターより車で7分
宮津駅より車で5分

山王宮奉賛会
入会のお知らせ

ご入会戴きました方々は名簿を御神殿に奉斎する共に年末には御神札を送付し、また節分祭、例祭などのご案内をお送り致します。
年間会費は
個人会員 3,000円
法人会員 5,000円

ご入会は神社へご連絡下さい。